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つくり手を訪ねて
まえばるたんぽぽ

2013年9月


「まえばるたんぽぽ」という場所

広々とした駐車スペースに大きくて白い建物。
ここは知的障害、肢体不自由の方が働いている「まえばるたんぽぽ」という多機能型事業所。

今日は、たんぽぽ代表の宮田さんに事業所を案内していただきながらお話を伺った。

取材をさせてもらったこの日はちょうど検診の日で、
看護師が来られていた。

自分から「具合が悪い」ということを訴えない人が多いので、
毎月、定期的に看護師が来られて体調管理をすることは欠かせないそうだ。

往診に自ら来ない人もいるので、
その場合は看護師が直接、利用者のところまで行って検診する。

看護師は、専ら体調管理のみをその役割としていない。
利用者によっては日頃の話をする人もいるそうだ。
「『今日、長くなかった?』と言ったりするんです。」
と冗談交じりの会話を、笑いながら嬉しそうに話す宮田さんの表情を見て、
そんな時間も大事にしていることが伝わってきた。

宮田さんは笑顔の素敵な方だった。
宮田さんだけではない。
他のスタッフも、利用者も本当に明るかった。
その明るさは、どこかのチェーン店にみられるような
お決まりの作られた明るさではなく、
その人から滲み出ている明るさだった。


仕事であるということ

仕事であるということ
「福祉施設のものとして売りたくない」
と宮田さん。
「“おいしいから買う”であってほしい。」
と。



「お仕事」として引き受けていることから派生する
責任を持ち合わせていることを話しの節々で感じた。

その責任は、もちろん宮田さんだけが持ち合わせていても仕方がない。
たとえどんなに小さなことのように見えても、
自分たちが行なった仕事の先に、知らない誰かがいる限り、
そこには「自分が行なった」という責任が生じる。

ある工房のラベル貼りのお仕事をしているメンバーには、
直接、工房に行き、そこで作り手さんと話し、
自ら引き受けている仕事であることを意識できるようにしているそうだ。

そんなちょっとしたことをきちんと意識することで、
自分自身に課せられた責任を引き受けているのだろう。
笑いや明るさは絶え間なかったが、そこにあったのはレクリエーションではなく、
紛れも無く「仕事」だった。
お菓子作りの部屋に入った時の、ある種の緊迫感や
調理室でフォークをピカピカになるまで丁寧に磨いている時の、あの視線−。
真剣そのものだった。


肩代わりのできないはたらき

そして何よりも、その仕事を「自分の仕事」として引き受けているように
見て取れた。
やらされている感じや嫌々している感じではなく、「その人」というところで
「その人」の責任において働いている、そんな感じがした。

「自分の働いたお金で映画を見に行ったり、
お母さんにごはんをプレゼントしたり…。
お給料が出ると希望ややる気が出るみたいですね。」

ラベルを貼る仕事1つをとってみても
「その人」が見えた。
黙って貼り続けている人もいれば、
立ったり座ったりしながら貼っている人もいた。
壁に仕切られたスペースでやっていたり、
みんなのいるスペースでやっていたり。

「その人」の持っている能力、人柄、価値感が
より引き出されるような工夫がされているのだと思う。


最後の質問と小さな約束

「工夫」と言ってしまうと、なんだか上下関係を暗示しているようで
気がひけるが、それは何も障がいがあるからだということだけではないように思う。

確かに、体調面や精神面で気をつける必要はあるし、
いわゆる健常者と呼ばれる人たちがあまり必要としないサポートも、たぶんいる。

しかし、いわゆる「ふつう」に見える人でも、その身体や心のうちに何かを
抱えている人もいて、どんなに健康な人でも、生きていれば萎えることもたぶんある。

そう考えると、誰もが何かしらの障がいを抱えながら生きている、
とも言えるような気が私はずっとしている。

かくいう私は、たくさんの「できない」を持っているから
こんなことを思うのかもしれない。
私が毎日生活することができているのは
周りの人たちの支えがあるからだとひしひしと感じる。
毎日、誰かの「工夫」や「支え」の恩恵を受けて私は生きている。

私の「できない」と一緒にするつもりは毛頭ない。
その大変さや息苦しさは、障がいを抱えた本人にしか、あるいはその本人を
周りで支える人たちにしかわからないものだろう。

だからなのか、どうしても何かを聞きたくなって、
最後に質問した。

「人と関わる上でどういうことに気をつけていますか?」

「何も気にしていません。」

即答だった。

「傷つけたら『ごめんね』と謝って、
傷ついたら『傷ついた』と言いますね。」

1ヶ月前にスケジュールを立てたり、
「その人」に合ったものを仕事に仕立てていったり、
スタッフは利用者の仕事を傍らで見て必要なときはサポートをする。

そしてその根底にあるのは、たぶんサポートする人とされる人という枠組みではなく、
人と人との関わりがあることがこの答えようから伺えた。

「障がいは1つの個性だ」
と決まり文句のように言ってしまいたいとは思わない。

「個性」の一言に押し込められることで、必要な手が差し伸べられず
窮屈になってしまうことがおそらくあるだろうと思うので…。

だけど、たぶん、いわゆる「障がい」と名付けられる領域と
そうでない領域の境界線は曖昧なのだと思う。
きっちりとした基準はそこにはない。
時代や社会によっても変わる不確かなもの。
私はそう思う。

でも、取り違えてしまってはいけないのは、何もサポートがいらないかといったら
そうではない。
気にかけたり、工夫を凝らしたり、支えたり…
自分自身の基準を絶対とするのではなく、
彼らのことを知ろうとし、
自分自身の基準や先入観を修正していく。
そんなに大したことはできないかもしれない。
でも、少なくともそんな姿勢でいたい、と私は思う。

そういう姿勢でいつづけると、
おそらく、私が忘れそうになっていたり、知らないふりをしたり、
ごまかそうとしていることに対して
「それでいいの?」
と問いを突きつけられるときもあるかもしれない。

そんな問いに対し、時々、見て見ぬふりをしてしまっても
どこかでちゃんと「どうしたらいいのか」を考えたり悩んだりできる
1人になりたい、
そんな小さな約束を自分自身に交わした。

最後に。
この文章は、取材を通して私自身が感じたことや普段考えていることの、あくまで一個人のものです。